誕生日!@スウェーデン

おはようございます。こんにちは。こんばんは。Hej, あんです。

 

今日は私の誕生日!スウェーデンで迎える2度目の誕生日です。21歳になりました。朝7時から友達と勉強して、夜はスウェーデン語の授業というある意味充実した1日です。美味しいご飯とケーキ食べたいな、、、

 

昨年は二十歳をスウェーデンで迎えたわけですが、私も新しい地でバタバタしていましたし、家族も私を見送るバタバタが終われば間をおかずに冠婚葬祭系のものがあってバッタバタしていたのが終わり、やっとほっと一息ついていたところで3人揃って数日経ってから気がつきました、、、

というわけで、ちょっと今までの21年間を振り返ります。昔のことはあまり覚えていないなあと思っていましたが、書いていたら色々溢れてきて、21年間意外と長かったなと思います。

 

興味ないとは思いますが、お暇な方はお付き合いください。

 

私の21年間

 

福岡時代

牧師をやっている両親のもとに生まれました。正確には、私が生まれた時は社会人を経験した後に牧師になる勉強をしていました。そのため、赤ん坊時代は大学の教授や同級生の皆さんには大変可愛がっていただいたようです。

 

盛岡時代①〜幼稚園〜

2歳半で盛岡に移り住みました。幼稚園の年中さんくらいまでは毎週熱を出しては嘔吐し病院に連れて行ってもらってという超病弱な子どもでした。今はちょっと風邪をひきやすい程度で、健康に育ちました。

幼稚園に行っていた頃は最も人間関係に悩んだ時期だったと思います。とても自己主張が苦手だったからか目をつけられていじめられやすかったです。人に唾かけられたのはなかなかの衝撃体験でした。しかし、友達もいましたし、なぜだか根っから悪い人はいないという性善説的な考え方をする子どもだったので、病んだりはせずに幼稚園に通い続けられました。そして、唾をかけてきた子や手をつねってきた子、無視して仲間はずれにしてきた子たちとは幼稚園でよく遊ぶお友達になりましたし告白されたりもしました。なんか気づいたらそうなってました。

また、新体操やスケートやスイミングスクールにも通っていました。どれも極めることはありませんでしたが、基礎体力はだいぶついたと思います。

今書いている自分でも、よくわからない幼稚園生活を送っていたみたいです。ただ、とっても楽しくて豊かな3年間として記憶に残っているのでオールOKです。その頃の、人への接し方を今のコミュ障の私に教えてほしい、、、

 

盛岡時代②〜小学校〜

私立の女子校の小学校に入学しました。習い事もそうですが、盛岡プライスなのか、異常にやすかったです。父になんか安いなあとは言われていましたが、それでもそれなりの費用だろうと思っていましたが、今調べてみたら本当に安い、、、もちろん両親には感謝してもしきれませんが、そもそも東京プライスだったら女子校や習い事など人生の選択肢にも入らなかったでしょうから盛岡に住んでいてよかったです。

入学して半年経ったくらいから父と10kmランニングを始めました。タイムは54分とかでした、小1が(自慢)3月11日にパタリと止まってしまいましたが、この時のスパルタランニングはその後の忍耐力と根性につながっています。

小学校1年生の時に友達の発表会を見たのをきっかけにヴァイオリンを習い始めました。毎年クリスマスには教会でその友達やフルートを習っている友達と合奏をしたり、コンクールに挑戦してみたり、被災地や冠婚葬祭で演奏したり、後にジュニアオケや大学オケで演奏できたりと、人生の宝物を得られました。まあ、コンクールのために練習している時は本当に辞めたいと思っていましたが、、、

また、小学校の卒業生の方が教えてくださる新体操やお琴、裏千家の茶道、弦楽合奏団などなど、小学校6年間は今の私の基礎を作ってくれた大切な期間です。

中学に上がるタイミングで引っ越すことになり、小学校の同級生と別れるのは本当に寂しかったです。このタイミングで東京の中高一貫を3校受験しました。どうも私が東京に行った時にここ行ってみたいと中高一貫校を指していたらしいですが、なんでそんなこと言ったんでしょう。受験勉強中は、最後の盛岡を楽しむこともできず、友達と遊ぶこともできず、毎日泣きながら勉強していて本当に勉強が嫌いでしたが、今となっては私の学力の基礎はここで作られたと思うので良い経験でした。

小学校1年生の時に東日本大震災が起きて、ご縁があって直後から7年間沿岸に通うことになりました。これは津波を経験していない津波の現地を見てきてその場の人たちと親戚のような関係を築いてきた子どもとしてどう言語化すればいいのかわからないので、いつか言葉にできるようになったら書くかもしれないし、書かないかもしれません。ただ、今の私を形作っているのは間違いなくこの出来事です。

 

横浜時代①〜中学校〜

中学入学と同時に、親の仕事の都合で横浜に引っ越しました。東京の中高一貫を3校受験しましたが、見事に全落ちしたので、学区の中学に進学しました。

小学校は田舎の都会にある全校70人ちょっとの小さな女子校だったのに対し、入学した中学は都会の田舎にある全校800人越えの共学でまさに新しい世界でした。人生で最も戸惑った時期です。自分の常識や感覚が通用しないというのを初めて体験しました。しかし、幸いなことに今でもたまに連絡を取る友人に出会えて、行事にも勉強にも全力投球できた楽しい3年間を過ごしました。

また、中学1年生から高校2年生の間、公立のジュニアオーケストラで活動しました。周りが音高生だったり音大を目指している人が多くて、あまりのレベルの高さに振り落とされないことだけに必死の5年間で、このオケに入ったことを後悔したこともありました。しかし、数十曲のさまざまな作曲家の曲、ホーム会場での演奏会、プロのオケ奏者からの指導、演奏旅行とさまざまな経験をさせていただいて、周りは良い人ばかりで、友達もできて振り返れば充実していて楽しかったです。一演奏会ごとの達成感もとても大きかったです。

現在の大学オケをただただ楽しめているのはこの時の経験のおかげです。

 

横浜時代②〜高校〜

高校は県立校の国際バカロレアコースに進学しました。

ここでも「今まで全く違う」環境になりました。高校入学時点でようやく新しい環境というのを楽しめるようになった気がします。

今まで勉強というのは机に齧り付いてほとんど1人でやるだけのものだと思っていましたが、高校でディスカッションベースの授業になったことで、机に齧り付くだけじゃ足りないんだということに気がつきました。どんなに知識を詰め込んでも、これからは実際に使えないといけない、覚えるだけじゃなくてそれらを組み合わせて混ぜて自分で新しい知識を作っていかなければいけない授業になりました。しかし、今考えてみれば、中学で書いたレポートも同じでした。その割合が急に増えただけでしたが、当時の私には衝撃でした。

IBが本格的に始まるタイミングでコロナパンデミックが起きたり、そのせいで修学旅行も高2の文化祭も無くなったりしましたが、授業のために登山したりとなかなかできない経験もたくさんしましたし、かけがえのない恩師や友人とも出会えた3年間でした。

正直あまり良い成績は取れませんでしたが、今の大学に繋がっているのでまあ結果オーライということにしておきましょう。

また、高3の大事な提出物と試験が重なっているタイミングで斜視になり、約半年間片目が見えなくなるという衝撃事件もありました。たかが片目と思うかもしれませんが、平衡感覚も変わるし、使っている方の目は異常に疲れるし、メガネの度は合わなくなるし、結構大変でした。高3の写真を見るとずっと眼帯していて面白いです。

 

福岡時代〜大学〜

実は今の大学に来る以前に1年福岡の大学に通いました。受験時に斜視になって色々あったので、小学生の時から憧れていた大学に行きました。

この大学での1年間は国際寮で暮らし、1週間ギチギチで予定が入っているオーケストラに入り、限界まで授業を取り、と非常に充実した1年でした。しかし、そんな環境でできた友人先輩の誰もがさまざまなことにチャレンジしていて、私が諦めきれていなかったスウェーデンへの道をめちゃくちゃ応援されて、もう一度挑戦することを決意しました。本当に夜散歩しながら励ましてくれたり、ご飯を食べながら私も頑張るから頑張ろうと言ってくれたり、、、感謝しても仕切れません。

 

スウェーデン〜大学〜

そんなこんなでスウェーデンにやってきました。スウェーデンに来てからは自分が本当に興味ある分野をとことん勉強できる環境になり、勉強が楽しくて仕方ないです。今まで、色々やって来たわりに何も極められなかった私ですが、大学では勉強を極めたいと思います。

 

 

本当に、両親をはじめ周りの人と環境に恵まれ続けてきた21年間でした。すでに二十歳を過ぎていながら、周りにはまだまだ迷惑をかけてしまっていますが、その分少しでも将来恩返しをさせてほしいと思います。そして感謝を忘れず伝えたいと思います。そのためにも目の前の今できることをしっかり達成していかなければ。

 

Hej då!